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加賀藩前田家14代の「金沢城」


日本歴遊記vol.11

 #歴遊旅 #金沢城 #前田利家 #キリシタン大名 #国宝 #城 #金沢 #石川

前田家が築いた加賀藩「金沢城」へ歴遊旅をしてきました。

 

加賀藩前田家14代が居城した金沢城・城下町を歩く前に藩祖「前田利家」についてふれておきましょう。

 

意外や意外、尾張(名古屋市荒子)出身なんです。※諸説あり

 

これまた、意外や意外、織田信長に引けを取らないくらいの「かぶき者」だったとは……

前田利家(まえだとしいえ)


槍の又左

加賀藩主前田氏の祖で戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将。豊臣政権の五大老の1人。

前田利家は、14歳の時、18歳の織田信長に、小姓として召し抱えられました。信長からは、幼名が犬千代であったため「お犬」と呼ばれて、とても可愛がられており、同じ「かぶき者」として気質が合っていたようです。戦になると6.3メートルを超える大槍を携えて先陣を切りました。「萱津の原の戦い」が初陣となり、この戦で武勲をたてました。その後、信長から勘当され浪人になりますが、戦に勝手に参戦し、実力で武功を挙げて、返り咲きました。織田信長の戦においては、「赤母衣衆」筆頭として数々の戦に従軍して、槍の名手であったことから、「槍の又左」の異名で知られようになりました。豊臣秀吉から加賀国・越中国を与えられ、加賀百万石の礎を築く事となりました。

赤母衣衆(あかほろしゅう)


母衣は、矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、日本の武士の道具の一種です。

兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの。

 

武士の七つ道具

(具足、刀、太刀、矢、弓、母衣、兜)

 

室町時代になると、一対一の騎馬戦から集団戦に移行するに伴い、実用性よりも見栄え重視になりました。母衣衆の一員になるのは、大変名誉なことで、限られた者しかなれません。織田信長の赤母衣衆と黒母衣衆が有名で前田利家は、赤母衣衆の筆頭として活躍しました。

金沢城について


城となる前は加賀一向一揆の拠点として、金沢御堂が天文15年(1546年)に置かれていました。

 

天正8年(1580年)に、織田信長の重臣「柴田勝家」の軍勢により攻略され、その指揮下にあった佐久間盛政(さくまもりまさ)が、初代城主となりました。盛政は、身長182cmもあり、当時にしてはかなりの巨漢であったようです。

 

その後、天正11年(1583年)に、前田利家(まえだとしいえ)が、能登七尾から移り城主となりました。

 

慶長3年(1598年)に、利家の長子「利長」が城主となり、これ以降、「加賀」・「能登」・「越中」3ヶ国(現在の石川県・富山県の大部分)を領し、加賀藩前田家は、江戸時代を通して、最大の大名となりました。

 

かつては、城内に家臣たちの屋敷もありましたが、寛永8年(1631年)の火災の後、城の構造変化により、武家屋敷は、城外へ出されました。

 

宝暦9年(1759年)、城の殆どが火災により焼失した後は、実用性を重視するお城へと変わっていきました。

いもり堀と鯉喉櫓台


(りこうやぐらだい)

いもり堀は金沢城の南西側を囲む外堀です。

堀の南東側に鯉喉櫓台の石垣がありました。

切支丹寺跡


(きりしたんじあと)

リスト教会の事で南蛮寺(なんばんじ)とも言います。

兼六園横の紺谷坂に隣接するようにあったようです。

キリシタン大名として知られる高山右近を招き、築城の指導を仰いだと伝えられています。

石川門(需要文化財)


金沢城の裏門で、御三門のひとつ。

二重櫓、渡櫓、長屋からなる重厚な枡形門に造られています。

天明8年(1788年)に再建され、現在に至る。

河北門


(かほくもん)

「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する三の丸の正面であり、金沢城の実質的な正門。石川門、橋爪門、とともに「金沢城御三門」のひとつ。安政元年(1772年)に再建しましたが、明治15年頃に無くなり、平成24年に再建し完成しました。

ニラミ櫓と太鼓堀


一の門の右脇に設置された二重櫓が、「ニラミ櫓」です。

大手筋に睨みを効かせる櫓という意味があるようです。

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓


 

(ひしやぐら)、(ごじっけんながや)、(はしづめもんつづきやぐら)

二棟の三層三階の物見櫓「菱櫓」と橋爪門続櫓を二層二階の倉庫「五十間長屋」でつないだ建築物。菱櫓は名前の通り菱形の物見櫓で、三の丸から新丸にかけての物見と二の丸の「防御」の役目を兼ねていました。五十間長屋は、二の丸最大の長屋で、二の丸や橋爪門周辺の「警備」の役目をしていました。橋爪門続櫓は、橋爪門から出入りする人の「監視」する役目でした。

橋爪門


(はしづめもん)

二の丸の正門として最も格式の高い門。

通行に際しては、最も厳しい制限がかけられていました。枡形は場内最大規模を誇ります。

御三門のひとつ。

三十間長屋(重要文化財)


(さんじっけんながや)

二層二階の多聞櫓で安政5年(1858年)に再建。江戸時代から続く貴重な建物です。

鉄門


(くろがねもん)

二の丸から本丸へ入る正門。

鉄板を貼った扉がつけられていたことが名前の由来のようです。渡櫓がのった重厚な門で本丸の防御をしていました。

戌亥櫓跡


(いぬいやぐらあと)

本丸の北西角「戌亥」の方角にありました。

本丸跡


1586年頃に天守を設けたと伝えられています。慶長7年(1602年)、落雷により天守が焼失した後は、再建されませんでした。代わって三階櫓が建てられました。1631年までは、御殿が置かれ、金沢城の中心でしたが、寛永の大火後、二の丸に移りました。

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自然の中を歩き歴史を感じながら石垣巡りをするのも金沢城の魅力のひとつです。

金沢巡り。


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