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国宝五城のひとつ「彦根城」


日本歴遊記vol.8

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天守が国宝指定された五城のひとつ「彦根城」へ歴遊旅をしてきました。

別称:金亀城(こんきじょう)

 

国宝五城とは、「彦根」、「姫路」、「松本」、「犬山」、「松江」のことです。

 

彦根は滋賀県北東部に位置し、彦根市の中心に金亀山(彦根山)があり、その山一帯が彦根城です。

 

彦根の城下を歩きながら天守を目指します。

彦根の名の由来


江戸時代以前に、現在の城山に祀られていた「活津日子根命(イキツヒコネノミコト)」に由来すると言われています。

初代彦根藩主「井伊直政」


徳川四天王の一人「井伊直政(いいなおまさ)」

徳川家康が見出して臣下に加えます。戦上手で、しかも、政治力と外交折衝能力もある武将で家康は重用しました。静岡県井伊谷の出身ですが、関ヶ原の戦いの功績が認められ、石田三成の居城「佐和山城」を与えられ、18万石の大名となります。佐和山城を現在の彦根城の地に移そうとしていましたが、病気で亡くなってしまいます。その遺志を受け継いだ子らが20年の歳月をかけて、彦根城を1622年に完成させました。

井伊の赤備え


徳川家中の最強「赤備え」

武田氏の旧臣を多く採用して山県昌景が指揮した朱色の甲冑をまとった赤備えの軍団を復活させ「井伊の赤備え」と呼ばれる徳川家中の最強軍団を組織しました。徳川家の戦いには、井伊の赤備えが常に先鋒として敵に突撃することが慣例となっていきました。

 

井伊氏の橘紋

徳川幕府大老「井伊直弼」


彦根藩15代藩主

日本を開国に導いた「井伊直弼(いいなおすけ)」も彦根城を居城としていました。井伊直弼は、禅の精神と相通ずる茶道にひかれ、自身を「宗観(そうみ)」と号し、修行を続けました。天皇の命令を得ないまま日米修好通商条約に調印し、安政の大獄を行いました。安政7年(1860年)3月3日、「桜田門外の変」で暗殺されます。

いろは松


表門に向かう中濠の沿道の松並木で47本あったので、この名がつけられました。

※現在は、34本。

二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)


佐和口は、中濠に開く4つの口の一つ。

佐和口には、かつて、中濠に接して高麗門があり、その内側を鈎(かぎ)の手に曲げて櫓門が築かれていました。城門の形式としては、最強の枡形で、重厚な構えでありました。

馬屋(重要文化財)


城内に残る馬屋は全国的にも彦根城にしかない珍しい建物です。藩主の馬などを常備していました。

登り石垣


山の斜面を登るように築かれた全国的にも珍しい石垣です。

表門橋〜表門山道


山の斜面を登るように築かれた全国的にも珍しい石垣です。

廊下橋


大手門と表門の両坂の登頂した上にこの橋が架かっており、戦時には、この橋を落として敵の進入を防ぎます。

天秤櫓


豊臣秀吉が創建した長浜城大手門を移築したといわれてえり、天秤のような形をしているところから呼ばれるようになりました。

この形式は、日本の城郭のうち彦根城ただ一つ。

 

太鼓門櫓


▼ 本丸への最後の関門。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

天守(国宝)


約400年の長い歴史を持つ現存する天守です。

大津城から移築されたものといわれており、1607年に完成。

 

「美しさ」と「機能」の両方を兼ね添えた天守です。

▼隠し部屋

天守内部には4人ほど入れるスペースの隠し部屋が4ヶ所あります。平時は、外から見えないように漆喰で塗り固められています。

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城下に広がる琵琶湖の景色と紅葉がとても綺麗でした。

彦根巡り。


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